日本のステンドグラスの歴史について、当時の事を知る人の話を載せた資料より抜粋
1. 宇野澤辰雄とステンドグラス
宇野澤組は日本におけるステンドグラスの源流のひとつです。
旭硝子株式会社取締役である大野政吉氏(昭和3~4年 日本窯業協会会長)による説話(昭和7年取材)は次の通りです
山本辰雄(のちの宇野澤辰雄)は明治19年東京工業学校卒業後、当時来日していたウィルヘルム・ベックマンの貸費生として6名の研究生に選ばれ3名の建築技師に引率され、政府派遣の職工8名、煉瓦、セメント会社より依頼のあった3名と共にドイツのベルリンへ渡航し、明治20年1月にドイツへ到着。2ヶ月の語学研修の後、ベックマンの指示でそれぞれ専門工場に勤務しました。このとき辰雄はステンドグラス、エッチング等の研究を命ぜられ、ベルリンの工房にて学びました。そして当時帝国議会、議事堂、その他の建築設計等のためにベックマンの助手的なグループに入り、実際の欧州建築を視察研究し、明治23年1月に帰国。帰国する際、辰雄は11種類のキャセドラルガラスを持ち帰ったとのことです。
帰国後、辰雄は養子先の姓を名乗り、宇野澤辰雄となります。芝区新銭座4番地に「宇野澤組ステンドグラス製作所」を開きました。これが日本で最初のステンドグラス工房です。明治24年、当時硝子業を営んでいた別府七郎に技術を伝授しましたが、その後別府氏は自ら工場を建てました。しかし仕事が無く各自四散することになり、辰雄はポンプ製造を始め、のちの宇野澤組鐵工所の基礎を作りました。
ステンドグラスの主な仕事として、海軍省(明治27年)、司法省(明治28年)、大審院(明治29年)等があります。
明治44年、辰雄は44歳の若さで病のためこの世を去り、明治39年に船を降りていた辰雄の養父である宇野澤辰美がステンドグラス工房を引き継ぎ、別府七郎と木内真太郎の三人共同でステンドグラス事業を始めました。そして、このとき辰美によってケイム(鉛線)を作る機械がドイツから取り寄せられました。しかしこの時もステンドグラスの需要は無く、明治45年に解散しました。この時別府七郎と木内真太郎は宇野澤の元を去ります。しかし宇野澤辰美はステンドグラス製作をするための設備や人がまだ残っていたため、大正8年に辰美が亡くなるまで経営を継続しました。
大正2年に別府七郎は大阪で創業し、一年後、木内真太郎に経営を譲りました。そうして今日に至り、この事業に従業する人が次第に増加し、現在(昭和7年頃)東京に10工場(宇野澤ステンド、玲光社、別府製作所、小川製作所、東京ステンド等)、大阪5工場(玲光社、ベニス工房、関西ステンド等)あり、製作に当たっていました。
宇野澤組におよそ30年在職した、宇野澤組最後の職人である「森勇三氏」談は以下の通りです。
森 勇三(日本ステンドグラス協会名誉会員)は明治35年生まれ、大正3年に宇野澤組に入所し、見習い奉公9年を含め同所に30数年勤務。後独立して現在(昭和59年8月)に至る。職人歴70年以上、大正・昭和初期のステンドグラス工房の様子を知る数少ない一人。
「私が入った年(大正3年)には、もう宇野澤も代がかわっていました。こう言うと間違えるかもしれませんが、ドイツでステンドを学んできた宇野澤辰雄さんの方は、ステンドの工場を始めたものの需要が少なくて、その後続かず、機械の方へと商売替えをし、後の宇野澤鐵工所(ポンプ業)の基礎を始めたんです。しかし職人は残っているし、設備はあるし、ということで、これを惜しんだ辰雄さんの養父の辰美さんがこの事業を引き継ぎました。
そして私が入所した頃には、すでに宇野澤から独立した別府製作所なり、米国から帰ってきた小川のスタヂオが東京にあって仕事をしていました。
私が入所した大正3年は忙しく、あの頃は欧州戦争って言ってましたが、この大戦(第一次世界大戦)景気で、ずいぶんと仕事がありました。高輪にあった味の素の鈴木邸など、今でもよく覚えています。ちょっとハイカラな洋間なんぞがある家にはよく使われたものです。
入所当時の宇野澤の工場は芝区新銭座4番地、今の港区、浜松町のそばになります。大きな地所で、通りから向こうの通りまであるような広さでした。その敷地の一角に工場が道路に面するかたちでありました。
主人は、宇野澤辰美。本当にいい方でした。この方は大正8年、私が17歳の時亡くなりましたが、これまでこうしてステンドグラスの世界で食べられてきたのも、ご主人(宇野澤辰美)のおかげと今でも感謝しています。命日が1月7日で、戦後一回だけ行けませんでしたが、毎年、墓参りだけは欠かしませんでした。
私はご主人のことをおじいさんと呼んでいましたが、当時としてはハイカラな人でした。昔、日本郵船の機関長をやっていたと聞いています。日本郵船を退職後、一時、洋食屋をしたこともあって、当時としては珍しい洋食の器具が台所に並んでいました。告別式の時も、郵船の人がたくさん来たものです。
その他、入所した頃にいた人は、会計の大立目義重。その昔、仙台の郵便局で働いていたと言っていました。私たちは”会計さん”と呼んでいました。ご主人が亡くなってからはこの方が、実質的に経営をやっていました。
宇野澤秀夫さんは名儀上の主人で、日立に勤めていた人だったんです。
私の兄弟子に当たるのが梅沢鉄雄。後に独立して名古屋でステンド工房をやりました。あと職人には、倉本永吉、井山長次郎、小玉惣吉、そして佐藤福太郎。こういう人たちです。
宇野澤の系列として名前を聞く木内さんと三崎さんですが、木内真太郎さんは大阪玲光社、三崎弥三郎さんは東京玲光社。共に元々は建築の方の出です。三崎さんは東京にあった辰野(辰野金吾)という建築屋さんのところにいた人です。木内さんは、山本鑑之進というところの現場監督をしていました。共に建築屋さんですから図面も図案も描きます。それで宇野澤で図案のアルバイトをしていました。私の持っている図案集も三崎さんのものが多いんです。お施主さんとも会いますから、ここにステンドはどうですかと進めることもできます。そのうち、ステンドグラスの方がよいという事でこれを本職とするようになりました。私はよく知りませんでしたが、別府さんや木内さんは宇野澤とよく協力して仕事をしたようです。
志村博さんは私より1年年上ですが、あの人は学校へ行ってましたから私より後に入りました。宇野澤には長くいませんでしたが、主に図案をやっていました。
松本三郎さんはご主人が亡くなって、大立目さんが取り仕切るようになってから入ってきました。まだ小僧でしたが一所懸命よくやりました。国会議事堂の仕事の時なんぞは、中が広いんで、自転車でとびまわって仕事してましたよ。私とは一番仲が良いんです。
私が見習いとして入って、9年間の奉公のことですが、最初は何も出来るわけでなし、教えてくれるでなし。手伝いやパネルの掃除、パテ詰めなどです。これを何年かして慣れてくると、今度はやっと四角や格子などの簡単なものをやるんです。私の場合、住み込みの奉公で、工場の二階。会計室のわきの階段をのぼっていって、はめ板を押し上げると丁度6畳くらいの大きさの部屋があって、そこに寝起きしていました。そのため、夜、皆が帰って静かになると、その板をあげ、そっと降りていってガラス切りやハンダの練習をする。これが終わると、誰にもわからないようにまたきれいに片づけ、そして寝る。こうして仕事を覚えました。
『あいつは器用だ、やったこともないのに上手にやる』ということになって、嬉しかったものです。それに私は内弟子だから、難しい仕事がよく私のところに来ました。職人たちは手間で稼ぐわけですが、難しい仕事がくると、時間もかかるし、第一上手く出来ないとお金がもらえないわけです。内弟子でまた小僧なら、失敗してもまたやり直せばよいってことで、私のとこにはずいぶん難しい仕事が来ました。だから人より早く仕事を覚えることができました。
その頃は、ハンダは無い、鉛線は無いで、全部自分のところで作らなくてはいけません。鉛と錫を半々に入れて金の鍋で溶かし金勺ですくっては、金やすり板の上にツーっと垂らす。こうやってハンダを作るんです。最初は上手く出来ないから玉みたいになってコロコロ落っこちてしまう。この作業は洗い場のそばでやりました。
鉛線の方は、それを専門にやる人がいました。最初の頃は、全部手で動かしていたんです。まず鉛を熔かして、それを工字の形をした鋳型に流し込み、これを機械で、押し出しながら伸ばすんです。慣れないとき、はじめは元気ですから早く出来ますが、だんだんくたびれてきて、最後は動けなくなってしまう。最初から最後まで、丁度、牛が坂を上るみたいにゆっくりゆっくり作業をする。こうすると一日中できるようになります。
こういう作業をして何年か経つと、ハンダゴテです。これも今みたいに電気じゃなくて、七輪に炭を入れておこし、この上に各自2本ずつ焼きごてをのせ、冷えると取り替えながら使うんです。丁度、小型の斧の形をしていて、重いので長く持っていると腕がくたびれてきます。
ハンダゴテを2~3年すると、やっとガラス切りです。柄の短い、ドイツ製のダイヤモンドで、今ではもう手に入らない型です。両脇に大小のガラスを折る溝のあるやつです。この頃した仕事が、横浜の開港記念会館にあるものです。
全面ハンダについてですが、あれを始めたの私なんです。昔、奉公していたころは、宇野澤でも鉛の接点だけをハンダしていたんです。私らはポツって言ってました。ところが、ハンダもれがあると1つ1銭とられるんです。10個あると10銭。月の小遣いが60銭の頃ですから大変です。へたするとすぐ無くなってしまう。こうなると人間、現金なもので、ハンダもれなんか、1日何百か所ってハンダしても一か所もなくなります。宇野澤の時にはこんな風にしていました。そのうち、私が独立してから、ある日、お客さんからハンダのとこだけ光って汚いと言われたんです。ハンダはしないわけにはいきませんから、それなら全部してしまえって。ところがこうすると、きれいになるけど全部テカテカになってしまう。仕方ないから、硫酸銅をお湯でとかして、これを塗って銅色にしました。今、アンテークパティナとか言って売っているやつがこれです。
フラックスも自分で作った。松ヤニを精製したものに洋チャンというものがあります。少しサラサラした粉末で、昔は塗料屋によくあった。これを同量のヘッドと混ぜて、お鍋で煮る。これだけです。
パテは白いパテに黒ニスと紅妙丹を混ぜて作りました。こうするとチョコレート色になって、メッキとよく合うんです。別府さんのところは白パテに油煙ズミを混ぜてました。ですから、あの頃はパテの色でどこの仕事かわかったもんです。
力骨(補強)は、真鍮の二分角っていうのを使いました。
あとは今とそんなに変わりません。
9年間の年季が明けて、一人前の職人として認められるのが21歳の時。
男は兵隊検査があって、合格すると一人前になるんです。年季が明けると、宇野澤でも紋付の和服を一式揃えてくれました。こうしてやっと一人前です。本当なら2年間兵隊に行くんですが、当時、丁度軍縮になっていて、全国で21師団あったものが19師団にまで減らされていたんです。おかげで、1年間だけで済みました。ところが、兵隊に行ったその年の9月、あの大震災(関東大震災)があって、京橋の自宅も宇野澤の工場も全部焼けてしまいました。焼けたというのは聞いたんですが、ともかく兵役の途中で見に行くわけにもいかない。ずいぶん辛い気持ちでした。
関東大震災
大正12年(1923年)9月1日、昼、関東大震災発生。折から昼食時と重なったため、市内各地から火の手が上がり、とくに浅草、日本橋、京橋といった下町一帯は幾筋もの火の流れにより次々と家屋が火に包まれていった。東京市だけでも、焼失家屋40万軒、死者、行方不明者10万人弱を数えた。
宇野澤のあった芝区新銭座も、夜を徹して新橋方面から渡ってきた火により、翌2日、焼失する。
震災とそれに続いての「朝鮮人騒ぎ」でついに戒厳令まで出て、軍も出動する。とても自分の家を見に行く事なんかできない。実際、京橋にあった自宅跡を見に行ったのも、一ヶ月くらい経ってからのことです。宇野澤の工場もひどいもんでした。倉まで焼けて、何も残っていない。丁度工場の中央あたりですが、何かキラキラ光る塊がある。これが何と、熱で熔けて固まったガラスなんですね。ガラス棚があったところで、ガラス同士が立ったまま固まっていました。
宇野澤の工場再建についてですが、何しろ何も無くなりましたから一からの出直しです。職人たちも自分たちの家のこともありますからしばらくは来れない。宇野澤のところも自分たちの身内だけでやってました。私も京橋の自宅跡にバラックをたてて、工場までは自転車で通いました。
幸いなことに仕事はあったんです。満州鉄道の仕事などもあり忙しかったんで、これを機に工場を拡げることになりました。元、倉庫があった所にガラス棚が作られ、作業場も広がりました。東京でも焼けない所があり、また各地に、宇野澤から出ていったステンド屋もありましたから、こういうところから、ガラスなど融通してもらいました。。仕事場も広くなって、仕事も順調でした。
宇野澤に30年以上、70年も職人をして思い出に残っている仕事は覚えきれないほどありますが、若いころの事で話すと、西園寺公望公の御殿場の別荘の仕事をしました。当時の日本で一番偉い人です。窓二ヶ所ですが、西園寺公の仕事をしたんだということで、一流の職人としての勲章をもらったみたいなもんです。
みなさんは知らんでしょうが、満州鉄道の列車のステンドグラスも作った。列車と言ったって一両ってことはありませんから十両も二十両もある。各車両の前後にアーチ型のステンドが一つずつ。それに通路の両脇に3寸5分×1尺5寸くらいのがズラッと入るんです。一等車だけっていうわけでもないこうなると仕事は忙しい。大正の末頃で、宇野澤にも10人くらいの職人がいたんですが、毎日毎日が競争みたいなもんです。ガラス切りは腕の良い人がやる。これが職人の中の最高です。切られたガラスが木箱の中に整理されて、背の高さまで積み上げられると、今度は組み立てるんです。大きな作業台のあっち側に3人、こっち側に3人並んで用意ドンでスタートする。何しろ人より早く、きれいじゃないといけない。皆腕自慢になろうってんだから凄いもんです。それでも早い人と遅い人では倍くらいの差ができる。これを毎日毎日やる。
終戦後の話ですが、喫茶店の仕事がドンドン来たことがある。こうなると1日1枚仕上げちゃう。1㎡くらいのものでも1日1枚。前の晩に図案を描いといて朝6時から型紙。8時の朝飯前に一仕事するわけです。そしてガラスカット、組み、ハンダ、メッキ(全面ハンダのこと)、パテまでその日のうちに終わらしちまう。これを一人でやるんです。商人は物を売れば良いんだが、職人は仕上げなくっちゃダメなんです。腕一本なんだから。丁度、太鼓を叩くように、手が休みなしに動く。こうやって4人分くらい稼ぐんです。
大正末ごろの話ですが、8尺丸(直系2.5メートルくらい)という大きなステンドグラスを宇野澤で作ったことがあります。上野の松坂屋の階段の塔屋のところに入れる。こんな大きなものは工場で作ってから運ぶというわけにはいきませんから、現場で作るんです。これを取り付けした後に台風が東京に来た。宇野澤でも心配になったのか、あれ見て来いと言われ、台風の日に行ったんです。恐ろしかったですね。大きなステンドグラスが、強い風がくると、フワー、フワーっと出っ張ったり凹んだり。10㎝くらいは動くんです。力骨が入っていましたし、丈夫に作ったんで、壊れませんでしたが、その日のことを今でもよく覚えてますよ。これも戦争かなんかで無くなってしまいました。宇野澤で作ったものでデパートで残っているものが伊勢丹にありますが、昭和初期のものです。
開港記念会館の仕事も宇野澤です。ペリーの乗船したポーハタン号を描いたステンドグラスが入っていますが、この船尾にアメリカの旗が立っているんですね。終戦後、駐留軍が来て、婦人将校の宿舎になったことがあるんです。その人たちがこのステンドグラスを見て、戦争中も、敵の国の旗のついたステンドグラスを大事にしてたということで、感激したんですね。お陰で、建物も取り壊されたりしないで残ったんです。
国会議事堂、あれは大仕事でしたね。昭和の初めの頃で、宇野澤にも15~16人くらい働いていたんですが、国会議事堂のためだけに、5~6年かかりました。毎日毎日こればっかです。
宇野澤が、中央の塔屋と貴族院(今の参議院)、議会場の天井会談の両脇、それと便殿を受け持ち、別府さんが衆議院、そして東京玲光社の三崎さんが議員階段を担当しました。
図案は大蔵省の方から出てきましたが、どのガラスにするっていうのは私たちが決めました。
ガラスだって大変です。宇野澤の工場の中にこのガラスを置く棚が4~5間、両側に並び、その他に5尺×3尺の大判ガラスを置く物置きがあって、やはり4~5間分ありました。この位ないと仕事にならないんです。
最初の1~2年はガラス切り。これがどんどん、どんどん溜まっていく。切られたガラス片を箱に詰めて、だんだん背の高さ位になる。こうすると、もう積めませんから組み込みを始めます。議会の天井は、1枚がだいたい1メートル角の大きさです。力骨をうんと入れました。
取り付けの前になると議事堂の中に一部屋借りて、一時保管します。自転車に荷台を横に付けたサイドカーで、工場から議事堂に何回も何回も運びました。議事堂の中に入るのには、木でできた一種の手形、門鑑を見せて出入します。これが無いと入れない。
取り付け前には大蔵省のお役人の検査があるんです。ところが、オパールセントなんかは、同じガラスでもふがあって、少しずつ違う。これをダメだと言うんです。こっちは一世一代の名誉仕事ですから悪いもんなんか、作るはずがないんです。
検査でダメだと言われたステンドを別のとこに置いて、役人が帰ると、そういうもんから取り付けてしまう。上からどんどん取り付けて、足場を外してしまいますから、もうそばまで行けない。
ふがあるガラスは遠くから見ると、その違いがきれいなんですね。最後に取り付けた後、『よく出来た』と言ってもらいましたよ。
議事堂の中も広いもんですから、中を自転車で動いたりしました。天皇陛下の休む所を当時は便殿といいましたが、この部屋の天井も宇野澤です。便殿は、神聖なところですから他の職人は入れない。私らも白衣を着てからこの部屋に入って仕事しました。
貴族院の議会場の天井はちょっと恐かったですね。足場はあるんですが、ずーっと下が見えるんです。あそこはまず、金網をひいて、その上にステンドをのせ、ステンドから少しはなしてまた金網をしました。何かがあっては大変ですから。写真で見ると網入りガラスみたいに見えますが、本当は違うんです。
この国会議事堂は取り付けだけでも、何ヶ月もかかりました。本当に大仕事でしたね。
国会議事堂工事の歩み
大正 9年 6月26日 鍬入式
10年 6月 整地
10年 3月~6月 基礎工事
11年 2月 鉄骨作業
昭和 2年 中央塔屋完了 上棟式
5年 夏 中央塔頂部完成
室内工事
7年 初夏 便殿、両院議場の内装完成
11年 11月4日 修祓式
国会議事堂が出来て何年かすると、だんだん世の中が悪くなりました。贅沢はいけないっていうんで仕事も少なくなり、仕方なく、普通のガラスをリヤカーで引いて、通りから通りへと歩きました。それでも、ガラスの修理なんかはまあまああって助かりました。
そんな事をしているうちに戦争(第二次世界大戦)になって、いよいよステンドなんかやってられなくなってしまいました。
また皆さん、ステンドをやる方が増えてきて、私ら長生きしてて良かったと思いますよ。
まあ、宇野澤の一番良かったのは、大正末から昭和の初め頃ということになりますか。昭和の初めの頃建てられた文化住宅なんぞにもよく使われたももんです。田園調布とか成城とか。青山、高輪。今はみな高級住宅地になってしまいましたね。今思えば、良い時代でした。」
( 「昭和59年8月 森勇三氏 談 」より )
宇野澤組の最盛期は大正の末から昭和の初期だったと森勇三氏は言っています。
一人前の職人になるには9年以上かかり、宇野澤組の最盛期である大正の末ごろには一人前の職人となっていた森氏だからこそステンドグラス製作を多くこなすことができたのです。
以上の通り、森勇三氏は宇野澤組最後の職人でした。
宇野澤辰雄は、日本にステンドグラスを伝えた最初の人であり、後進にステンドグラス製作の環境を与えました。
宇野澤組を技術で支えた人たちは、別府七郎、木内真太郎、三崎弥三郎、梅沢鉄雄、蔵本永吉、井山長次郎、児玉惣吉、佐藤福太郎、森勇三などです。
2. 小川三知とステンドグラス
宇野澤組と並ぶ源流のひとつである小川三知は、ステンドグラスを美術の世界へと高めたステンドグラス作家の第一人者です。
明治43年、日本画を学んでいた三知は、美術学校卒業後、研究のため渡米しアメリカ風のステンドグラス(ティファニー)に出会い日本に持ち帰りました。三知は絵画の才能をステンドグラスに生かした希有の人です。
日本はドイツのキャセドラル系のガラスが主流でしたがアメリカステンドグラスはオパールセント仕様が多く、その後日本でも用いられるようになりました。
三知の作品は、和を表現して彼独特の世界を創出し、数多くの名作が後世の人々に今なお感銘を与えています。
洋風のステンドグラスを和の世界に導いた一人であり、ステンドグラスを職人芸から美術の世界へ格上げし、ステンドグラス作家という名称を創った人です。
三知が残したすべての作品がそれを物語っています。
上の3枚のステンドグラスは「旧松本健次郎邸」に入っている作品です。小川三知の作品であるとステンドグラス史研究家のT氏が本に書いていましたが、こちらは画家の和田三造のデザインであるため、たとえ小川三知が作っていたとしても、この作品は和田三造のものということになります。ステンドグラスはデザインを描いた人間の作品であるからです。
3.七條泰雄とステンドグラス
宇野澤辰雄と小川三知は明治の先達です。七條泰雄は宇野澤、小川より10年以上遅く生まれました。
七條泰雄は国内ではマイナーで知名度は低いですが、弟子は多く今日まで100名を超え、110年以上ステンドグラス工房を現在まで継続させた唯一の人です。
京都の七條家に生まれ、若くして欧州に渡航し色彩ガラスに惹かれステンドグラスを修得しました。欧州に留学した父親の喜一の影響もあったようです。
はじめは大連と上海でドイツ人とステンドグラス工房を共同経営しました。作品はフィリピンや香港、大連、上海などにあります。しかし、第一次世界大戦、第二次世界大戦という大きな戦争に中断され、また日本は敗戦したため昭和21年に大連から引き上げざるをえませんでした。
その後、ステンドグラス工房継続のため準備を進め、残していたガラス材に加え、新たにステンドグラスの材料を集めながら鉛線加工機械をドイツに発注し仕事を進めました。
作風は和を求め「御所車」や「京美人」「九面体」、昭和天皇、皇后両陛下ご来臨の日名子ホテルの「唐獅子」は昭和の名作です。
特に「御所車」について述べるとしたら、御簾の模様の部分は絵付けでは無く、一つ一つガラスをくり抜き、その穴にきっちり入るガラスを作り、木づちで打ち込んでいます。現在のようにいろんな道具があるわけではない不便な状況の中こだわって作る、本物の職人です。
9年後の昭和33年に東洋ステンドグラス株式会社を法人登記して、事業を軌道に乗せました。
現在まで、海外経営を加え110余年間、三代の継承者がステンドグラスを継続させています。七條泰雄は二代目、三代目に技術を直伝しているためそれぞれが兄弟子、弟弟子になり、四代目候補に三代目が直伝しているため七條の孫弟子ということになります。
97年間今なお継続している日本で一番古い工房です。
七條泰雄が創った東洋ステンドグラス株式会社も宇野澤、小川と同様に日本のステンドグラスの源流の一つなのです。
実質消失したステンドグラス工房は、主として玲光社、別府製作所、小川製作所、東京ステンド、関西ステンドなどですが、もしかしたら消失した工房の弟子たちがいるかもしれません。
専門のステンドグラス(鉛線組込ステンドグラス)工房がほとんど閉鎖、消失しました。現在、現役のステンドグラス老舗工房は、日本に三工房しか残っていません。東京の 株式会社大竹ステンドグラス と 株式会社松本ステンドグラス製作所、それから福岡の東洋ステンドグラス株式会社です。三工房とも継承されてきた工房であり、技術と実績と伝統があります。
日本におけるステンドグラスの歴史を一般社団法人日本ステンドグラス工芸士会としては正しくお伝えする義務があると思い、残っている資料なども少ない状況でお伝えできることを書かせていただきました。
( 参考文献 明治 大正 昭和初期 日本のステンドグラス、大野政吉氏説話、森勇三談、森勇三と熊本俊正談話ほか、日本ステンドグラス協会資料 )